薄れやすい記憶を残すために、昭和31年に農業高校を卒業された古老から聞いた話を記していきます。
【米は金貨】
昭和28年、中学校の同学年130名のうち、男子9名、女子6名が農業高校へ進学しました。そのころは未だ食糧難の時期であり、農業高校の月謝は、実家の田んぼや畑の面積に応じて、古老は米1俵を支払っていたとのことでした。修学旅行で岐阜の山奥に行った時、地形としても生業としても米を生産できない旅館の宿泊費は米1升だったそうです。
【農作業はコミュニケーション】
古老のさらに父親の世代、昭和初期の頃の話です。同じ集落にいる隣の農家達に迷惑をかけるな、ということで、田んぼも畑も隣との境界から草刈りをしてきれいにしてから、自家の田んぼや畑の中をきれいにする風習だったそうです。とはいえ、 田んぼよりも畑のほうが大事なもので、晴れた日は畑で野菜をつくり、雨が降ればかっぱを着て田んぼの土をうなっていたそうです。
田んぼのひえは今ですら除草剤も効きにくいもので、隣とつながっている水路や棚田からひえの種が流れていきます。そのうえ、一度刈ってもまた育ってくるので、ひえ刈りに追われていました。毎朝土手や田んぼの畔に生えた草を刈り、天秤棒にかけた二つの桶を満杯にして帰り、堆肥をつくるために小屋にきれいに積んでいたそうです。
この習慣は古老の農業高校時代にも続きます。その時分、家庭訪問する教師はこう話したそうです。「私は家の中には入らない。むしろ外で、庭にある小屋を見て、積まれた堆肥の量や整い方で、大きな農家か零細な農家かを判断する。」
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